銀製の聖書カバー(1871年)
シリア正教の聖典と関連書物―イエスの言葉や初期教会を物語る―
   この章はTHE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES からの抜粋訳です。

 

トップページへ

 

 


聖書の翻訳版
 シリア語旧約聖書には二つの翻訳があります。簡易翻訳版すなわちペシッタは、平易で簡素な翻訳であることからこのように呼ばれています。その翻訳時期は、しかし、学者らの議論の対象となっています。これら学者らの幾人かは、序章はダビデの子ソロモンとティラの王ヒラムの時代にヘブライ語からシリア語に翻訳されたと主張しています。司祭アサの時代に翻訳されたとする学者らもいます。しかしどちらの見解も貧弱で反駁しえるものです。エデッサのアブガル王と使徒アッダイの命令によりエルサレムで翻訳されたとする学者等もいます。より正確には、ペシッタは一世紀にキリスト教化したユダヤ人たちの一群によって翻訳されたものです。
 第二の翻訳版であるセプチュアジントは、オリゲネスのヘクサプラ、すなわち6つの典拠  に基づくギリシャ語訳の後、アンティオキア総主教アタナシウス1世の命により、タール・マウザルツの聖パウロにより翻訳615-617されました。セプチュアジント版は聖書注解の際学者達の典拠となりました。バル・ヘブライオスは彼の注解書Ausar Roze(秘密の蔵)で、ギリシャ語訳の名の下にこれを度々引用しています。また彼は、彼の長大な文法書Semhe(光の書)において1章をこれに充て、セプチュアジントのほうがペシッタより正確であることを証明し、前者の正確さを示しこの問題への反論と論争の門を閉ざすため、両聖書から12の論拠を挙げました。
 後に読者は、7世紀第一四半期にリキン修道院の助祭シモンにより翻訳された詩篇の特別訳に触れることとなるでしょう。
 新約聖書には3つの翻訳版があります。第一は簡易訳で1世紀末から2世紀初頭に作成されました。この翻訳版は聖ヨハネの手紙2及び3、聖ペトロの手紙2、聖ユダによる手紙を除き新約聖書の全編が収容されています。第二はフィロクセネス訳で、505年マブグの都市大主教聖フィロクセネスの監督の下、コレピスコプス・ポリカルプにより翻訳されました。第三はギリシャ語からのヘラクレス訳で616年マブグの主教、ハルカルのトーマ(ヘラクレアのトーマス)によるものです。
 二つの聖書にはまた、パレスチナ方言に従い作成されたもう一つの訳があります。これは先に述べた全ての翻訳版のうち最も新しいものであり、そのうちわずかな断片のみが残っています。

ディアテッサロン
 ディアテッサロン、すなわち"四部合唱"は、統一福音書を示すギリシャ語でキリストの生涯と神聖な教えを収容しています。カイサリアのエウセビオスと13世紀までの私達シリア人の学者のグループによれば、その生誕地を取りアディアベネのとも、またアッシリア人のとも呼ばれたタティアンにより(172/173A.D.頃)55章に編纂されました。
 現代の学者らはディアテッサロンに関して鋭く意見対立しています。タティアンはこれをギリシャ語で編纂し他の人がこれをシリア語に翻訳したと考える学者もいれば、彼がシリア語で編纂したと考える人達もいます。これら学者らは彼が使用したシリア語訳に関しても意見を異にしています。改訂前  のペシッタ版が使用されたと憶説するグループもあれば、たとえば今日シナイ訳として知られているシリアのアンティオキア訳―1982年シナイ山修道院で見つけられた698年もしくは789年にマアルラット・ミスリンの聖カノン修道院で柱頭行者ヨハネによって筆写されたMS.30の中にあったことからこう呼ばれています―のような、ペシッタとは異なる古い訳が使用されたと考える学者らもいます。この版は1910年レウィス女史により出版されました。他に大英博物館MS.14450の中、クレトンにより発見された翻訳版が使用されたとする学者等もいます。これは5世紀に筆写されたもので1858年に出版され、クレトンの福音書と呼ばれています。バーキットによって1901年再出版されましたが、どちらの版も完全なものではありません。現代の学者らはこれら二つの翻訳時期についても対立しています。その理由はおそらくタティアンと彼の編纂作について古代の学者らにより与えられる情報の乏しさにあります。
 ディアテッサロンはその流暢な様式、卓越した構成と歴史的配列から、エデッサの、またユーフラテスとメソポタミアの二つの地方のシリア人達に高く受容されました。彼等はこれを"混合福音書"と呼びました。彼等は彼等の教会でこれを使用し、広範囲に再配布しました。アフラハトはこれに言及し、エフライムはこれに注釈を与え、彼の注釈書は今日も1195年に筆写されたアルメニア写本に残り、ラテン語に翻訳されオウシャーにより1876年に出版されました。
 ディアテッサロンは黙示書(聖書)の完全性を守るためエデッサの都市大主教ラブラにより停止された5世紀の第一四半期まで使用されていました。このとき彼は替わって分割された福音書を導入しましたが、彼がギリシャ語原典に従い改訂したといわれているものです。彼の後にはその教区から200以上の写本を排除したサイラスのテオドレトが続きました。結果その教会内での配布は停止され、残った写本は一般の読書にのみ使用されるようになりました。  ディアテッサロンの写本はしかし、医師でありフナヤン・イブン・イサク―彼によるアラビア語への翻訳は11世紀半ばの司祭-修道士アブ・アル-ファラジ・アブド・アラー・イブン・アル-タイイブのものとされています―の弟子であったイサ・イブン・アリの筆によるものが9世紀半ばに発見されました。このアラビア語訳はラテン語に翻訳され司祭アウグスタイン・シアスカにより1888年出版されました。同様に2度この書は英語に、そしてドイツ語へ1896年及び1926年に翻訳されました。もっとも、4つの福音書を一つにまとめようとする発想は複数のキリスト教学者に発案されました。ヒエロニムス(ジェローム)  によればそれらのうち最も古い例は、アンティオキア総主教のテオフィロス(180年没)であり、226年ごろなくなったと考えられているアレキサンドリアのアモニウス、そして9世紀初頭サラミヤ主教だったときのシリア人エリヤです。しかし、9世紀半ば、ベト・バティンのダニエルが主の御受難の週のための聖書購読を設けたとき、彼はディアテッサロンの使用を復活させ、いくつかの章においてヘラクレス版の補助を求めました。さらに、13世紀頃のコプト教学者数人は、イブン・アル-タイイブの方法に従いディアテッサロンのアラビア語編を作ろうと試み、彼等はこれに私達の主キリストの系図と彼の復活に関する二つの論文を付加しました。これら論文は、聖ヨハネの福音書第一章の5節で始まるにすぎないタティアンのディアテッサロンには収用されていなかったものです。このアラビア語版の14世紀に筆写された写本がバチカン図書館に保存されています。
 タティアンについて言えば、彼は110年ごろ異教徒として生まれ、文学、話法、歴史そして哲学をギリシャで学びギリシャ全域を旅しました。彼の旅は彼をローマへ導き、そこで彼は旧約聖書を読み、気に入り、哲学者等の著書より好むようになります。彼はキリスト教を受け入れ、哲学者であり聖人、殉教者であるネアポリスのジャスティンと交際しました。  彼は"極素"と呼ばれる隠者の一派の主義に追従し、もしくはこれを創設しました。このため彼は教会から追放されました。彼が追放された理由は彼がその著作の中で用いた誤った危険な文章であったとする評論家らもいます。彼は帰国し、もしくはよりおそらくはエデッサへ戻り180年かその少し後に亡くなりました。彼は知恵と哲学者の器でもありました。彼はギリシャ語で多くの作品を作りましたが、ギリシャ人への厳しい譴責の手紙を除き、全て失われてしまいました。殆どの学者らが彼によって編纂されたか翻訳されたと考えるディアテッサロンを除き、彼のシリア語著作は知られていません。

資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES / PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM


   
トップページへ  Meriam & Joseph @2003. リンクは大歓迎、フリーです。転載の場合はご連絡下さい。