アレッポ聖ゲワルギウス教会レリーフ.Resource; The hidden pearl.
シリアのキリスト教の起源と展開 ―祝福された都市、エデッサ―
   この章はTHE HIDDEN PEARL からの抜粋訳です。

 

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主要な文化中心地
 シリアキリスト教の起源は、信頼できる歴史的資料の欠如のためあいまいな状態ですが、バルダイサン(222年没)の作とされる諸国の慣習の書、別名運命についての対話が証明するところから判断して、明らかに3世紀初頭までには広域にわたり確立されていました。
 運命論に対する彼の議論の中で、バルダイサンはキリスト教徒共同体が見出せる東方および西方の、あらゆる異なった地域をあげました。バルダイサン自身は明らかにギリシャ哲学の伝統の中で高い教養を身につけていましたが、全てシリア語であった彼の著作において確実にそれは活かされ、彼が生み出した神学と哲学の統合は全く彼独自の創作でした。バルダイサンは彼のギリシャ哲学への精通という面でおそらく初期シリア人著作家の中では特別な存在だったと思われますが、これより一世紀半後の時代を生きた聖エフライムはこれまで通常考えられてきたよりははるかにこの知識を持っていただろうとの考えが最近おこってきています。エフライムはバルダイサンの憶測的な着想の数々に反対し筆を執りましたが、彼らは両者ともにマドラシェと呼ばれる教えの歌の形で詩歌を用いて幅広い聴衆に彼らの教えを受け入れさせた点で、重要な共通性があります。シリア語の教育方法の中で韻律詩が常に重要な教えの媒体であったことは明らかであり、バルダイサンから千年以上後のバル・ヘブライオスはシリア語文法則の基礎を教えるのになお韻律詩を使っています。4世紀から7世紀までの間に数々の学校が、最初は主に街中ででしたが後には村々においても現れるようになりました。中でも二つの学校が大きな名声を得ることとなりました。エデッサの「ペルシャ人の学校」とニシビスのその後継です。

■エデッサの学校
 四世紀までにエデッサには数々の学校がありましたが、何らかの情報が得られているのはペルシャ人の学校に関してのみです。 その起源は不明瞭で、おそらくエフライムの名とそれらを結びつけた後の伝承は誤りでしょう。「ペルシャ人の」という名がつけられているのは、明らかにこれにひきつけられた多くの学生がペルシャ帝国内からエデッサに越境してきたことによります。主教ラッブーラ(412-35)の時代までには、この学校は明らかに十分確立され、430年代初頭のその監督者は、主教としてラッブーラの後を継ぐこととなる、ヒバもしくはイバスでした。モプスエスティアのテオドールによる著作のいくつかがシリア語に翻訳され、彼の聖書注解がエフライムのものと共に学校の教育課程のひとつとなったのは、この時期、この学校においてでした。この時期はキリスト論に関する苦い論争の時期でもあり、アレクサンドリアのキリルのこれとは異なるアプローチに従ったものたちによって、この主題におけるテオドールの教えはだんだん不満足なものとみなされるようになりました。やがて、489年には、キリルの立場を支持するもの達が皇帝ゼノをもって、彼らが悪い影響を及ぼしているとみなしたこの学校を閉鎖することに成功しました。実際のところ、その優秀な生徒らの幾人かは彼ら自身もテオドールのキリスト論に反対で、誰をさておき、後にマッブーグの大主教となる偉大なシリア正教神学者フィロクセノスがそうでした。

 フィロクセノスはペルシャからエデッサに来た多くの学生達の一人でした(後の伝承によればトゥール・アブディンのモル・ガブリエルの修道学校経由で来ました)。そのほか、この学校のシリア正教の学生にはベト・アルシャムのシモンと偉大な詩人サルガのヤコブがいます。
 対照的に、ヤコブと同窓の詩人で年配の同時代人であり、やはりこの学校のペルシャ人卒業生となったナルサイは、学校の公的方針に従い、彼自身この学校の教師、また監督者、そしてテオドールの2つの性質のキリスト論の強力な推進者となりました。おそらくナルサイは、この学校が閉鎖されるいくらか前の時点で、敵対者の増大するエデッサを離れ、ペルシャ帝国内のニシビスへ国境を越えてゆく必要性を感じていたのでしょう。その地で彼は、かつてはペルシャ人の学校の生徒であり、今やニシビスの大主教となっていたバルソウマの助力により、新しい学校を創設し得たのでした。

ニシビスへの移動
 ある東シリアの著作家はエデッサのペルシャ人学校の489年の最終的な閉鎖を、「エデッサは暗くなり、一方でニシビスに光が射した」との所見と共に記録しています。確かに、6世紀の過程においてニシビスの学校は国際的な名声を得、現代においては「最初の大学」とさえ記述されました。例外的な幸運により注目に値する文書が学校規則の形で今日まで残されました。これは496年に最初に改訂された規則と、602年に加えられた後の序章とを含むものです。
 これらの規則から私達は学校の構成と学生生活の特徴を伺い知ることが出来ます。・・・中略・・・
 この規則からは残念ながら学校で教えられていた科目について情報を得ることが出来ません。明らかに最も重要な主題は聖書研究でした。これは基礎レベルにおいてテキストを正しく読む、そしておそらく歌う能力が必要されたことを意味します(古代においては読書はほぼ例外なく声に出してなされたことを気に留めておくべきでしょう)。これは言語の文法知識の範囲に関わったかも知れず、ニシビスのような学校において本格的なシリア語文法研究が始まったことに疑いはありません。後続の数世紀にこの分野における洞察力に満ちた数々の作品が生み出され、その最も重要なものに、東方シリアの伝統に習ったティルハンのエリアによるものと、西方のエデッサのヤコブ、そしてバル・ヘブライオスによるものがあります。
 次の段階では聖書注解があったと考えられ、ニシビスの学校がその国際的な名声を得たのはおそらくこの分野でした。その理由は教師達が文学批評の中に時代の進歩を最もよく適用し、聖書本文にそれらを当てはめたという事実にありました。有名なギリシャ医学著者ガレンなどのそれのような権威ある一般文書やアリストテレスの多巻にわたる著作の研究のため、プログラムに基づいた基準が何年にもわたって開発されました。6世紀前半、この方法論をどのように聖書本文に適用するか試みた文書が「ペルシャ人」パウロという人物によって書かれました。「アフリカ人」ジュニリウスはパウロとコンスタンティノプールで対面したときこれに感銘し、「神の律法の一部について(On the Parts of the Divine Law)」と題された聖書研究への彼自身による手引書を執筆しました。パウロの作品は残りませんでしたが、ラテン語で書かれたジュニリウスのそれは残り、中世の西ヨーロッパで聖書研究が教えられる途上にニシビスの学校が重要な影響を間接的に与えたのはこの本を通してでした。
 ニシビスの学校に感銘を受けたラテン著作家はジュニリウスだけではありませんでした。その評判はもう一人の6世紀ラテン著作家カッシオドルスの耳にも届き、彼を鼓舞し南イタリアのナポリの近くにヴィヴァリウムと名づけられた同様の教育機関を立ち上げさせました。ヴィヴァリウムは古代末期から中世へラテン語文書を伝えるに大変重要な役割を果たしました。
 どのような一般科目が学校で教えられていたかはわかりませんが、聖書研究の庇護の下いくつかのものが組み入れられ、こうして古代末期の6日間の創造についての注釈は天文学、地理学、地質学、自然史やその他分野でのより科学的情報を含む傾向がありました(シリア語での傑出した例がエデッサのヤコブの作品です)。特に6世紀末以降、同様に教えられていた可能性のある科目は倫理学です。おそらくこの世紀の初期にはポルフュリオスのエイサゴゲー別名アリストテレスのカテゴリー論への序論が、アリストテレスのオルガノンすなわち「道具」と共に、シリア語に翻訳されていました。ギリシャ語、ラテン語、シリア語、アルメニア語、そしてやがてはアラビア語、グルジア語の、どの言語においても、これらは急速に全てのより高等な教育の基礎となったのです。・・・中略・・・
 6世紀の間、ニシビスの学校は後に著名になる数々の学生達を輩出しました。そのうちの一人が偉大な修道院創設者、カシュカルのアブラハムであり、彼の修道院は今もイズラの斜面に建っています。他には東方教会の偉大な神学者、ババイがいます。この学校で教えたことのある人たちの中には、カトリコス・モル・アバ(540-552)がいます。ギリシャ人著作家コスマス・インディコプレウステス、別名「インド洋の航海士」は、彼らがアレクサンドリアで会ったとき彼の教えに感銘し、この対面からコスマスは、彼の12巻の「キリスト教徒風土記」に、彼のことをギリシャ名でパトリキオスとして取り上げ、感嘆をこめて「偉大な師」と語っています。
 多くの写本がこの学校で筆写されたことは確かで、これらのうちの一つは実際に残っています。これは615年に「聖なる都市ニシビス」で筆写された福音書の写しです。写本筆写者(カタールから来た人物)は学校の数多くの教師陣の名をあげています。
 エデッサやニシビスのもの以外にも、そのほか多くの学校が古代末期のシリア語圏に存在したことが知られていますが、これらの学校の活動についてはほとんど知られていません。7世紀には特に二つの学校が影響力を持つようになりましたが、そのひとツセレウキア-クテシフォン(東方教会カトリコスの座)にあったものであり、もう一つはベツ・カトラヤ(湾岸西側の現在のカタールより広いエリア)内にあったものです。後者からは先にも述べた、最も広く読まれているシリア人著作家と言いえる、ニネベのイサク(シリア人イサク)が輩出されました。彼の作品の数々はパレスチナの修道院聖ザバでギリシャ語に翻訳され、彼の著作は今日、西ヨーロッパ言語からロシア語、日本語にいたる、一ダース以上の異なる言語で手に入ります。イサクに帰されているこれらの作品群の中に実はフィロクセノス!による手紙が含まれていたことは興味深いことです。
 とりわけペルシャ帝国での性格であったらしい特徴に、村落での教会学校ネットワークがあげられます。こうした村落の学校からの写本が奇跡的に今日まで保全されています。これは、ベツ・ヌハドラ(北イラクのチグリス川東岸)の、さもなけれは知られることの無かっただろうテル-ディナワルという村で、600年に書き出された福音書の写本です。マルサの伝記から、彼が628年にタグリットで大主教になる以前に、彼が全く同じ地域に村の学校を創設して回ったことが知られます。この手段によって彼は東方教会の影響に対抗することに成功し、そこでのシリア正教の存在を拡大し得たのでした。

アレクサンドリアからバクダッドへ―シリア語経由で
 アラブの偉大な哲学者、アル-ファラビ(950-951没)は、哲学と医学の歴史をたどる記述―古代ギリシャに始まり、それがどのようにアレクサンドリアのギリシャ人学者達から行き巡り、アンティオキアを経由し、ついにはアッバース朝の首都、バグダッドへと伝えられることとなったかを彼は述べています―を残しています。彼がここで述べているのが、初期アッバース朝カリフ達によって開始された、ギリシャ語の科学、医学、哲学書のギリシャ語からアラビア語への翻訳という、驚くほど大それた事業でした。この「翻訳運動」が、イスラム世界だけでなく西ヨーロッパにおいても、続いておこる知的歴史のために非常に重要であったことは後に判明することとなります―12世紀のスペインにおいてなされたイブン・シーナ(アヴィセンナ)、イブン・ルシャド(アウェロエス)、その他の、ラテン語への翻訳に感謝します。
 アル-ファラビの記述の詳細の多くは、この文脈でのアンティオキアの特筆を含み、問題がありますが、それでも彼が提供する古代ギリシャから中世アラブとイスラム世界へのこれら知識分野の伝播の一般的概観は正しくあります。特に「アンティオキア」という語を、それなしではこのような事業は成し遂げられなかったであろう、シリア人の伝統によって果たされたこの過程における媒介者的役割と読むなら。
 シリア人学者達のこの重大な知識の伝達における役割はしばしば忘れられがちですが、実際のところとりわけこの過程の二つの段階で必要不可欠なものでした。その第一はアッバース朝の下での翻訳運動の前歴史段階にかかわることですが、ビザンティン帝国とペルシャ帝国の中東支配末期と、翻訳運動を推進したアッバース朝のカリフ達、特にアル-マンスール(754-775)、アル-マフディー(775-785)、また中でもアル-マアムン(813-833)の時代とをつなぐ期間、医学と哲学分野での学問の継続性を提供したのはシリア人学者達でした。そして、バグダッドのカリフ達が翻訳者達を委任するようになってから、最初に彼らが注目したのはその多くがシリア人の教会の学者達でした。彼らの背後にはギリシャ語翻訳の数世紀に及ぶ経験の蓄積があったことから、ほとんどこれらの人々だけが、この時その仕事を請け負う専門技術を有していました。もちろんこれはシリア語への翻訳(経験)でしたが、セム系の言語からセム系の他の言語へ翻訳するほうが、ギリシャ語から直接的に翻訳するより簡単であったことから、多くの翻訳家(有名なフナヤン-イブン-イシャクを含む)は2段階で仕事をしました。すなわち、まずギリシャ語からシリア語へ、それからシリア語からアラビア語へ翻訳したのです。時がたつにしたがい、イスラム教徒の学者達も翻訳の仕事に練達し、ギリシャ語から直接翻訳するようになり、9世紀の間は、知的興奮のさなかにあって、キリスト教徒、ユダヤ教徒、そしてイスラム教徒の学者達が皆この大量で重大な事業に共同で取り組みました。

(英語原文はこちら:THE HIDDEN PEARL VolumeU,p125-129)

   
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