聖エフライム
シリア人学者と著作家の伝記
   この章はTHE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES からの抜粋訳です。

 

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アミドのイサク(Isaac of Amid)363-418年?
 エデッサのヤコブによれば、イサクはアミドに生まれ聖エフライムが363年にこの町に短い滞在をした間彼の下で学び、その後エフライムの弟子であったゼノビウスの下で勉学を完了しました。彼は秀逸な7音節韻文の頌歌を作成しました。正統派として彼は西方(シリアン)に属する修道院の修道士となりました。ミティレネ主教歴史学者ゼカリアによれば、「シリア人博士イサクはアルカディウスとテオドシウス(395-450)の時代に生き、聖エフライムと彼の弟子たちの時代の後、公に知られるようになりました。彼はローマや他の国々へ旅行しました;ローマ行きはアルカディウスの時代にカピトールの要塞の開設を監視するためでした。彼は2編の詩を詩作しましたが、404年の非宗教的競技(ローマで挙行された)に関するものと、410年のアラリックによるローマ市の攻略に関するものです。帰国の途に彼はビザンチウムの町に少しの間滞在し、そこで投獄されました。やっとアミドに帰ると、彼は司祭に叙任されました。彼は神の書(聖書)のさまざまな話題に関して、預言的識見に満ちた数多くの著作を残しています。彼に帰される韻律聖歌と彼の2つの通称については後述することにしましょう。彼は教会で記念されています。

キリロナ(Cyrillona)
 キリロナは、良い詩形式、華麗な導入節、繊細で魅力的な意味内容を持つ詩人でした。彼の様式は熟練の詩人たちと並び、先人に引けをとらないものです。彼について知識人たちの書は何も述べていません。しかし、彼の名は大英博物館の古い写本のひとつで述べられており、この写本は雄弁な(数編の)詩、(数編の)マドラッシュ、そして彼がエデッサを襲ったイナゴの害などの当時の悪疫に関し詩作した一編の4音節韻律詩を収容したものです。この写本はまた、396年ごろのフン族侵攻に関する詩、最後の晩餐、十字架刑、使徒トーマス、そして一粒の麦に関する7音節韻律詩を収めたものです。この写本の中の残りの詩は、6、7編の5音節韻律詩と取税人ザッカエウスに関するスギスの一部を含み、1870年、そのすべてがビッケルにより出版されました。現代の著述家たちの中にはキリロナはエデッサの学校の学長カヨラであると主張する者たちがいますが、積極的に結論付け得ない信頼しづらい主張です。

ミヤファルキンのマルサ(Mrutha of Miyafarqin)421年没
 この高位聖職者はシリア語とギリシャ語に精通した抜群の文筆家でした。加えて彼は、技能に優れた敬虔な医者であり、知的な賢人そして賢い政治家でした。彼の美点は数多くその業績は賞賛に値します。彼は4世紀80年代にミヤファルキンの主教に任ぜられました。フォティウスは383年に彼(マルサ)がシドン公会議に出席し異端崇拝者らを反駁したと説明しています。彼はまたアンティオキアとアジア・ミノアの地方またコンスタンティノプールにも旅し、黄金の口のヨハネとアレキサンドリアのテオフィリウスの裁判に参加しました。その卓越性ゆえに、彼は399年、403年そして408年の3度カエサル・アルカディウスとテオドシウス2世から代理人としてペルシャ王ヤズデゲルド1世へ派遣されました。彼はペルシャに410年までとどまり、彼の努力を通じペルシャ領キリスト教徒は安全を獲得し苦痛から解放されました。410年、アル-マダインのカトリコス、イサク1世とともに、彼はセレウキアで開催された会議を主宰し、彼の議事録は東方教理典範集の中に組み入れられました。マルサはドゥ・アル-クタフ「He of the shoulders」と呼ばれたティラント・シャプール2世により50年迫害(339-379)で拷問された、最も有名な東方殉教者達の伝記を執筆しました。これらの伝記はまずラテン語に翻訳されアッセマニにより出版され、後に修道士パウロ・ベドジャンにより出版されました。これらは実に雄弁で興味深い伝記です。オリエンタリストらはしかし、これらの伝記ipsissimis verbisがマルサに属するものか疑問を持っています。おそらくこれらの伝記の著述家は2人以上で、複数の場所で執筆されたものでしょう。これらの伝記のあるものは彼(マルサ)の要望により執筆され、その他のものは彼の時代以前に執筆され、彼はギリシャ語へ翻訳するためこれらを編纂したのでしょう。スバウィは、ニカイヤ信条のギリシャ語からシリア語への翻訳を、彼が書いた殉教者の歴史及び聖歌と同じく彼に帰しています。彼は膨大な彼らの聖遺物をミヤファキンに移し、このことがマルティロポリス(殉教者の町)として知られる由縁となりました。彼は421年に没したと考えられています。

資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES / PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM,p81-82


   
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