聖エフライム
シリア人学者と著作家の伝記
   この章はTHE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES からの抜粋訳です。

 

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アンティオキアの聖セヴェルス(St.Severus of Antioch)538年没
 セヴェルスは偉大な教会高位聖職者、学者等の先覚者、シリア人の冠、アンティオキア総主教の誇り、際立った指導者そして彼の時代に類まれな博識者でした。彼は偉大な神学者でもあり、深遠な多作の著述家であり、聖職者達を指揮する雄弁な弁士でもありました。
 彼には傑出した法学生たちや問題の解決や複雑な問題の解明を求める良識的な人々が群がりました。信仰体系を建て上げ鼓吹し、また正統信仰の権威を支え説明した、彼は一体どんな人物だったのでしょうか。彼は心、魂、品性の清い人であり知恵と決断の鍵の所有者でした。
 セヴェルスは459年ごろピシダ地方のソゾポリスで生まれました。彼の祖父(父方)はエフェソス公会議(431年)に出席した主教の一人でした。アレキサンドリアで彼はギリシャ語とラテン語双方の文法と修辞法を学び、ベイルートのローマ法制学校で法学と哲学を学びました。彼はトリポリの教会で488年に受洗しました。後に彼は苦行の道を選び、パレスチナのマヨマの町にあった聖ロマノス修道院の修道士となり、主教エピファニウスにより司祭に叙任されました。それから彼は修道院を建立し、神を称え、苦行の徳を実践し、聖書と神学者たちの著作を学びつつ、そこに24年間とどまりました。彼は正統教義を擁護するため筆を執りはじめ、彼の名声は広まりました。508年、彼は教義を守るため200人の修道士たちとコンスタンティノプールへ旅し511年までの約3年間そこにとどまりました。一年と数ヶ月の後、アンティオキア総主教フラビアン2世が免職され、セヴェルスが使徒座を継ぐよう聖霊により選ばれました。彼は512年11月6日アンティオキアにて総主教に叙階され、その後彼は彼の知識の宝を説教にそして信仰や徳の本質の解説に開きました。彼は総主教として指導的立場にある間、決して彼の苦行と禁欲の道をそれることがありませんでした。そこで彼は総主教官邸から贅沢な生活様式を取り除く一方、近郊の教区や修道院を直接訪ねるか書簡により、教会業務体制を改革するよう彼の精力を注ぎました。カルケドン派のユスティヌス1世が518年にアナスタシウスを継いだとき、彼は私たちの正統主教の一群を追放し、9月25日にエジプトへ出発し24年間そこに留まったセヴェルスを敵に回しました。エジプトからセヴェルスは代理人や書簡を通じて教会を統率しました。不屈の精力で彼は異説や欺く者たちに対抗し書を次々と執筆し、書簡に答え、法的事柄に個人的意見を与えました。難問に突き当たったときには、彼は聖書の中に光を求め、または助けを求めて会議の議決文に立ち戻りました。535年、彼はユスティニアヌス1世の招きに応じ、一致を求めてコンスタンティノプールへ行きました。首都において、彼はコンスタンティノプール総主教アンティモスを味方に得ましたが、二つの派閥間の隔たりは大きいまま残りました。それから彼はエジプトへ戻り、538年2月8日サクハの町で亡くなりました。彼は教会により普遍的教会の偉大な博士として栄誉を授かりました。また教会は彼の命日を彼の記念日としています。彼の人生は4人の雄弁な著述家、雄弁術教師ザカリヤ、バル・アフトンヤ修道院助祭ヨハネ、アンティオキア主教アタナシウス1世、そしてもう一人の不詳の著述家により執筆されました。
 セヴェルスの著作は、駁論、典礼文、注解書、訓戒、書簡に及びます。それらは最高の敬意を払われています。これらは全てギリシャ語著作ですがシリア人学者達によりシリア語に翻訳されました。
 第一の駁論に関しては、以下のものがあります。
1-2)アレキサンドリアの修道士ニファリウス反駁論文2編;3)フィラレテスの書。これはアレキサンドリアのキリルたちの著作を弁護して執筆されたもので、この中で彼は正統教義に反するものたちがこれらの博士たちの著作の中で教会博士たちの意見を330箇所偽造したことを示しました。;4)彼の書フィラレテスの正しさを弁明したもの;5)王党派主教カイサリアのヨハネ・グラマティクスに対する書3巻。これは彼がアンティオキアで書き始めエジプトで完成したものです;6-7)2冊のファンタジアスト・ハリカルナッソス主教ジュリアン反駁の書;8)エウテュケス派のセルギウス・グラマティクスに対する論文;9)王党派司祭スキトポリスのヨハネに対する論文;10)フィリクシスモスに対する2部構成の論文;11)マニ教徒に対する論文;12)礼拝者の異端支持を内包するランフィティウス信仰契約に対する論文;13)アレクサンダーに対する論文。その一部はブルークによるセヴェルスの書簡第4巻の巻末にて出版されました;14)エウティキアヌスの異説に対するものでアンスタスの問いへの回答でもある貴族パウロとアフィアンへの書簡。
 第二の(典礼文)では、彼が詩作した目を見張るような賛美歌もしくは聖歌であるマニス(maniths)を収容する華麗な書があります。マニスは聖書の聖句で始まり畏怖と神の愛を直感させる洗練された文体に続きます。これらのマニスは295あり、以下のようになっています。訓戒20編、主の御降誕と殉教者に関する聖歌14編、公現祭、主の奇跡、聖日曜日に関する聖歌13編、レントと洗礼に関する聖歌9編、死に関する聖歌8編、棕櫚の祝日、ペンタコステ、悪疫、終祷に関する聖歌7編、神の母、地震に関する聖歌6編、主の受難、復活、40人殉教者に関する聖歌5編、聖職者と修道士と子供の葬儀のための聖歌4編。以下に関してもそれぞれ3編の聖歌があります;ユダ、主の受難、聖十字架、洗礼者ヨハネ、聖書朗読の後の詠唱、雨の消滅、ペルシャ戦争。さらに聖書朗読の前に朗誦するための聖歌2編には、日曜夜とその他の日に関するもの、洗礼堂への入室に関するもの、ベツレヘムの子供達(幼児の殺戮)、ステファノ、ロマノス、バビラス、セルギウスとバッカス、マカバイ家、ドラシスそして聖人バシル、グレゴリウス、イグナチウスら殉教者に関するもの、教会に関するもの、フン族侵攻に関するもの、みだらな見世物や舞踏の咎めに関するもの、彼の筆記者ペトロへの賛辞に関するもの、子供の葬儀に関するものがあります。また彼はそれぞれ一編の聖歌を、塗油式、ピラトの妻、良い盗人、ペンタコステの最中、十二使徒、使徒パウロ、福音記者マルコとヨハネ、福音記者ヨハネ、使徒トーマス、預言者たち、預言者ザカリヤ、ヨブ、殉教者レオンティウス、セルギウス、ミナ、柱頭行者シモン、アンバ・アントニウス、コプト殉教者達、ペルシャ人殉教者ジュベンティナス、ロンギナス、マキシマス(背教者ジュリアンの下で殉教者となりました)に関し書きました。そのほか、ヒムヤライテの殉教者、殉教者テクラ、エウフィメア、ペラギアそしてイグナチウス、アレキサンドリアのペトロ、グレゴリウス・サンマツルガス、偉大なアタナシウス、バシル、アンティオキアのグレゴリウスとパルフィリィ、アレキサンドリアのキリルと全ての主教たち、小テオドシウス皇帝、皇帝コンスタンティヌス、ホノリウス、グラティアヌス、テオドシウス大帝そして150教父にも賛美がささげられています。これらのほかに各一編の聖歌が、見知らぬ人の墓、復活祭、聖体拝領前の唱歌、昇天祭とペンタコステ、殉教者、聖体拝領の間唱歌される聖歌、主の御降誕、受洗者、昇天、処女マリア、殉教者、主教達の記念、日曜日の聖体儀式の後と主教たちが教区の家に帰る前に関してあります。最後に、彼がそれぞれ一編書いた聖歌に、公現祭;雨が降った後の感謝;冬至祭;彼(セヴェルス)が修道院訪問から帰ったときの修道士達;詩篇90;司祭、修道女、貞淑なやもめの埋葬と死者;異端アリウス派から改宗した女性、に関するものがあります。ブルークは2冊の大英博物館MSSをもとにこれらの聖歌を翻訳し1909年出版しました。
 セヴェルスはまた、「神よ、万物の作り主、とりわけ人間の;」で始まる、カリスの祝福すなわち聖体聖化の儀礼形式、洗礼の儀礼形式、公現祭での水の聖別の典礼文を嘆願祈祷とともに作成しました。
 彼の著作の三番目の項目、すなわち注解書は、聖ルカによる福音書注解書、エゼキエル黙示書注解書と、バル・サリビにより彼の聖書注解書に、バル・ヘブライオスにより彼の秘密の蔵の書に引用された、彼の訓戒と書簡に見出される聖書的話題と韻文です。
 四番目の項目(訓戒)では「大聖堂講話集(Homiliae Cathedrales)と呼ばれる125編の訓戒があり、大判3巻の中に保管されバチカンと大英博物館にあります。3編の訓戒がザフラン修道院と私達の(総主教)図書館にあります。これらの訓戒のうち51編はフランス語に翻訳され3巻の書籍が出版されました。これらの訓戒のうち最も有名なものは以下のとおりです。
 私達の主の御降誕に関する訓戒6編;公現祭に関する訓戒5編;レントに関する訓戒4編;バシルと神学者(ナジアンゼン)のグレゴリウスに関する訓戒4編;受肉、キュロスによる解放に関する訓戒3編;洗礼堂入場の準備(そのうちひとつは22ページに及びます)、昇天祭、告解、新年に関する訓戒;神の母;彼に提出された質問への回答に関するもの;アレキサンドリアのテモテ3世と殉教者ドロシスへ宛てた教会会議の書簡に関するもの2編。彼は各1編の訓戒を以下の論題に関し執筆しました。洗礼者ヨハネ、棕櫚の祝日、ペンタコステに続く土曜日、聖金曜日、ガラリヤのカナでの結婚式、生まれながらの盲人であった男、ベツレヘムの子供達(幼児の殺戮)、受難の週の水曜日、十字架のエンカエニア(Encaenia)、死者の記念、貧困、見知らぬ訪問者たち、キリストの復活について福音記者達の間に不一致が無い事実に関して。また、アレキサンドリアの証聖者アタナシウス;エジプトの修道制設立者アントニウス;マカバイ;初殉教者テクラ;殉教者レオンティウス、ドミティウス、セルギウス、バッカス、ジュリアン(ディオクレティアヌスの下で殉教)、タラクス、プロブス、アンティオニコス、プロコピウス、ポカス、バルラハ、タレラレウス;復活祭に続く週の聖人の記念、彼(セヴェルス)の叙階記念日に関しても各1編の訓戒が見出せます。以下の論題に関しても各1編の訓戒があります。彼のキンネスリンへの到着と町の人の歓迎、修道院や村々を訪ねる彼の意図を述べる告別の訓戒;祈りの後で劇場に通う人たちへ宛てた説諭的訓戒;アレキサンドリアの町を襲ったことが報告された惨事と罪人の数に関して。彼はまた聖書の聖句を解釈する訓戒を書いていますが、たとえば立法学者とパリサイ派への主の言葉「しかしあなた方は言っている、誰でも彼の父や母にこれは「贈り物です」といったなら」に基づくもの;「そしてシモンの姑はひどい熱から取られた」に関する訓戒;「天国で最も偉大なものは誰か」に関する訓戒;「エルサレムからエリコに下った人」に関する訓戒;私達の主が墓に留まった間に関する訓戒;「全ての人の子に対する罪は赦される、どんなに彼等が冒涜したとしてその冒涜も」という主の言葉に関する訓戒;聖句「心の貧しい人は幸いです」に関する訓戒;「人々は私、人の子を誰と言っているか?」という主の言葉に関する訓戒、使徒パウロからテモテへの助言「むしろ信心のために自分を鍛えなさい」に関する訓戒;マグダラのマリアへの主の言葉「私はまだ私の父のもとへ昇っていないのだから私に触れてはならない」に関する訓戒;そして正統教義の解釈に関する訓戒でそのうちの一つがトリサギオンに関するものです。
 彼の著作の五番目の項目は、3800通と見積もられる彼のおびただしい書簡で、これほどの数を書いた教父は他に知られていません。これらの書簡は昔、32巻に収集されましたが、そのうち4巻は彼が総主教になる以前、10巻が総主教在任中(512-518)そして9巻が亡命中(518-538)に執筆されたものです。これらのうち大判2巻だけが現存し、そのうち一つは669年ニシビスの司祭アタナシウスにより翻訳されたアンティオキアの聖セヴェルスの書簡選集第六巻と呼ばれるものです。1904年から1915年の間にブルークが英語に翻訳し230通を4巻にまとめ出版しましたが、中には原本から短縮されたものもあります。これらの書簡の全てが目を見張るばかりにすばらしく、神学的、法学的、歴史的、行政的情報の豊かさに満ち、その偉大で崇高な魂の光が反映されています。230通のこれらの書簡はほとんどが中程度の長さです。これらの書簡のうちの一つは61ページに及ぶもので、二番目が30ページ、三番目が29ページ、四番目が26ページ、五番目が14ページ、六番目が10ページあります。最初の2巻は123通の書簡が収容され、第3巻と第4巻は107通の書簡が26の古い写し(そのうち20が大英博物館、残りはパリ、ローマ、ベルリンにあります)から編纂されました。これらの写しは6世紀から13世紀の時代にさかのぼるものです。これらの書簡の中には、数行のみが残されているものもあります。以降はこれらの書簡の目録です:
 書簡1,205,206ラオディセアの主教コンスタンティヌス宛;書簡2,3,4,19,23,26,41,211イサウリアのセレンシア主教ソロン宛;書簡5アパメアの主教ペトロ宛;書簡6,82,ニキアス主教宛;書簡7ペルガの主教カストル宛;書簡8君主ティモストラトス宛;書簡9トリポリ主教ステファン宛;書簡10ユカリウス主教宛;書簡11バサス修道会修道院長宛;書簡12コスマス司祭宛 …中略…
 この偉大な高位聖職者の作品、そして彼の行動原理と科学分野の包括性について学んだなら―それらは彼がその時代に類まれな人物であったのみならず、後にも先にも並び得ないアンティオキア総主教であったことを証言しています―、賢明な読者に公平に彼(セヴェルス)の偏見的な敵対者ら―彼の卓越性を軽視し、ユスティニアヌスに彼の著作を燃やし、それらを複写または所有したものを厳しく罰するよう強いた―について判断してもらいましょう。結果として彼のギリシャ語著作は失われましたが、それらのシリア語訳は生き残りました。私達の学者の努力に感謝します。それらの著作は出版されるごとに、著者の卓越性と彼の決定的論証の妥当性に新しい証拠をもたらしました。またそれらは学者達の注意を伝統的な彼に対する非難から賞賛と尊敬へ転じました。ギュスタブ・バルディは概括の中で次のように言明しています。「彼の活動と果てしない努力において、セヴェルスは数多くの面で「使徒教父」アタナシウスに似ています。彼は全ての派の数多くの知的な著述者らに敵対されましたが、彼は彼等を論破しました。彼が堕落と失墜の甚だしさにより損なわれた時代にあって真の決断力と最高の能力を有した人物であったことを証明したものは、今日(1928年)出版された彼の著作でした。」

資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES / PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM,p92-96


   
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