聖エフライム
シリア人学者と著作家の伝記
   この章はTHE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES からの抜粋訳です。

 

トップページへ

 

 

 


ラバン(師)タクリットのアントン(Rabban Anton of Takrit)
 アントンは大変な知識人であり、指導的文献学者、最も有能な著述家そして詩人の一人でした。彼はタクリット出身でゲオルギンもしくはケオルギン家の出でした。彼は東方の修道院に入り、シリア言語の起源、雄弁術、詩文を十分学んだ後、司祭に叙任されました。この分野で彼は最高位に立ちました。彼はまたギリシャ語を学びましたが、彼は彼自身の言語をとても愛していたので、それを欠陥がある不十分なものとするギリシャ人著述家たちによる非難に堪えられませんでした。そこで、彼は修辞の知識と題された計り知れないほど貴重な作品を執筆しました。これは、この言語を擁護する5つの論文で400ページからなっています。第一の論文は最も長文で30章からなり修辞学に関するもの、第二は賛美の利益(On What Is The Use Of Praise)、第三は技巧の慣例、第四は愛と愛欲の類型と種類、第五論文は話法の潤色で、この中で彼は詩と押韻の種類を精査しています。彼は押韻を踏むためにでなければを使用した最初の人の一人と考えられています。彼の書の形式は壮大で雄弁です。まさにアラム言語の誇りといえます。それゆえ彼は「修辞学者」「雄弁術規範の担い手」とシリア人の間で呼ばれました。彼の書は言語の師匠たちにとって百科全書的参考文献となり、彼等はその模倣を試みました。彼の成果の一つに、彼の名で確認されることとなった彼が発明した新しいシリア語の8音節韻律詩歌があげられます。この類まれな書の3つの写しが今日に達しており、一つはモスル近郊のモル・マッタ(聖マタイ)修道院、一つはエルサレム、三つ目はミディヤット(トルコ)にあります。最初の写しは1403年に筆写されたもの、二つ目はこれらの全ての中で最も完全なもので一部は14世紀、一部は16世紀初頭に筆写されたもの、三つ目は最初のものと同じころ筆写されたものでしたが失われてしまいました。私たちはこれら三つからわずか数ページしか欠損していない信頼できる写しを編纂しました。C.S.C.O.協会の尽力によりこれが出版されることを待っているところです。
 この学究的な人(アントン)は神学分野でもすばらしい熟練に到達しました。彼は神の摂理に関する書を執筆しましたが、これは4つの論文、76ページに及ぶもので、死の類型、死について神が定めた宿命、運命そして又、富と貧困が議論されています。彼は又塗油の秘蹟に関する論文を執筆しましたが、これは27ページの書で、聖書とジャスティン、ヒポリュトス、エフライムとその弟子アバ、アタナシウス、グレゴリウス・ナジアンゼン、ニッサのグレゴリウス、エピファニウス、キリル、ディオニシウス、偽アレオパゴス、サラのダビデといった教父たちの解説書を編纂したものです。彼は又74ページのそのほとんどが8音節韻律の8韻律話法を構成している詩集も編纂しました。彼は5通の書簡も書きましたが、一つ目は牢屋に入れられた人へ宛てたもので冒頭が欠損しているもの;二つ目はカリニコスのオスマン・イブン・アンバサの偽名ユーフェミウスによりなされた(神への)感謝祈祷に関するもの、三つ目は慰問の書簡、四つ目はセルギウスへの賛辞を収容するもの、五つ目は著者により彼の積年の同胞として言及された老齢の格別な修道士ラス・アインのヨセフへの賛辞を収容するものです。この書簡は彼の年代記の一部、賛辞、イスラム教徒との宗教論争を収容しています。彼はまたラス・アインの町の土壌の肥沃さとそこでの生活の快適さを描写しました。したがって私たちは、彼がジャジラ(上メソポタミア)を旅しその複数の修道院を訪ねたことを理解します。それから彼はエデッサに行き、その都市大
主教テオドシウスに彼の書を見せ、彼の詩の分類を認められ大いに賞賛されました。六つ目の書簡は賛美ですが、欠損してしまっています。七つ目の書簡は目を見張るような7音節講話で、中傷に対し彼を誹謗もしくは軽視したものたちへの引喩があります。八つ目の書簡は忘恩者と恵みを否定する者に対するもので、彼の天与の詩的才能と詩歌構成の到達点がはっきり示されています。
 アントンはまた4つの嘆願祈祷文を書きました。一つは朝、一つは夕、一つは死者、最後は嘆願のためのものです。これらの祈祷文は彼の先に述べられた著作と同様ロンドンの二つのMSSに保管されています。おそらくアントンは他の失われた作品も執筆したことでしょう。シリア語の原理とその雄弁さを把握したいと望んだなら、如何にあってもこの熟達した抜群の学者の著作を学ばなくてはなりません。その人は又彼の第一著作すなわち修辞の知識の中に、雄弁な文書構成に要する流暢で明快なシリア語の原則を見出すでしょう。類似の方法を用いて彼の後の世代の人たちはアラビア語の著作を執筆しましたが、アブド・アル-ラハマン・アル-ハマドハニ(933年没)の書アルファズ・アル-キタビヤ(文献学的表現)、クダマ・イブン・ヤファ・アル-バグダディ(947年没)の書ジャワヒル・アル-キタビイヤ(表現の宝石)、アブ・マンスル・アル-タアリビ(1033年没)の書フィカ・アル-ルグハ(文献学)らがその例です。雄弁術教師アントンは840年から850年の間に亡くなったと考えられます。

資料:THE HISTORY OF SYRIAC LITERATURE AND SCIENCES / PATRIACH IGNATIUS APHRAM I BARSOUM,p127


   
トップページへ  Meriam & Joseph @2003. リンクは大歓迎、フリーです。転載の場合はご連絡下さい。